「別れよう。カトレア」
銀と金を鮮やかに纏った指輪を、男は静かに彼女の手に返した。
「理由は…言えない。だけど、君が嫌いになった訳じゃない。それだけは信じて欲しい」
否定しても、この男は傍を離れていくのだろう。悲しいことに女はそれを分かっていた。
それに、嫌いになった以外に別れる理由が何処に有るというのだろう。
きっと彼の言葉は優しい嘘だ。私を傷つけさせない、最後の心遣い。――この男は、昔からそういう男だった。

「…分かったわ」
「ごめんな。本当に、ごめん」
男から受け取った指輪は冷たく輝いているだけだ。それは、此処にもう男が戻ってこない事を指している。
離したくない。本当は、傍にいて欲しい。貴方が私を嫌いになっても、私はまだ、貴方の事が好きだから。
それでもこの手を離す以外に選択肢は無く、物寂しげに握っていた手を返せば、男はそのまま踵を返して去っていってしまった。

「僕の事は、忘れてくれ」
去り際に聞こえた言葉に、零れた雫が滝の様に溢れて来た。


――A-1【弾かれたふたり】――


僕はカトレア・レイセンスが好きだ。同じunionに勤めていた時から、彼女の事がずっとずっと気になっていた。
それでも中々話しかける機会は訪れず、好機も無いまま時間だけが過ぎていき――。
「何時もお仕事頑張ってますよね」
ある日、突然話しかけられた時は心臓が止まる程の思いを感じた。
ああ、僕はこの人に一目惚れをしているんだと。気付かされるのも時間の問題だった。
とは言え僕には何の取り柄も無い。強いて言うなら家が人より少々裕福であるというぐらいだ。それでも僕が此処で働いている理由は、僕は真面
目すぎるのが根っからの性格で、何か仕事をしていないと落ち着かないからである。
金目当てに近づいてくる女の人は沢山居た。自慢じゃないが僕はそういう人を見分けるのが上手い。だから女の人とは極力関わらないようにして
いた。
だけど、カトレアだけは別の何かを感じていた。
彼女も又誠実な性格で、僕よりも仕事熱心な女性だ。そんな姿に僕は惹かれて居たんだと思う。…カトレアがそうである様に。
僕等は程なくして両思いだと気付かされ、自然と付き合いを始めていた。
結婚する約束もしていたし、彼女が誕生日におそろいの指輪を買ってくれた時は心臓が飛び上がる程嬉しかった。

唯、現実は僕に厳しい。
――ダイアナ・フィスト。この街で名の知れる金持ちだ。
それは僕の家のような小金持ちというレベルではない。街一つ創ってしまえるような多額の金額を持っている、俗に言う‘貴族’だ。
唯彼女の性格の悪さは有名で、近づく男も中々いないと言う。
そんな女と僕は一生何があっても関わらないつもりだったけど、向こうが無理矢理関わってきた。
小金持ちとは言え僕の家も一応貴族の方に分類される。
両親が勝手に決めたお見合い。僕はカトレアと付き合いながら、親のいう事に逆らえず何度もその辺の貴族の人と見合いをしていた。勿論誰とも
付き合わなかったし、連絡も取らなかった。
僕にはカトレアが居てくれれば、それだけで良かったんだ。金も地位も何も要らない。彼女だけいてくれれば、それで良い。
そんなある日だ。僕がなかなか結婚する相手を決めない事に不機嫌になった両親が、遂に見合い相手にダイアナを選んだ。
…僕は両親にカトレアと付き合っている事がずっと言い出せずに居た。理由はさまざまだが、何より親が平民を嫌うことが一番だろう。両親は2人
揃って頑固で高いプライドを持っている。平民と付き合うなど持っての他だと思っている。僕がunionに入れたのも2年弱両親と交渉した結果、やっ
とだった。
そんな両親に「カトレアと付き合ってる」なんて言えば、きっと口から泡を吹いて倒れるだろう。そして僕を確実に軟禁する。そんな女と二度と会うな
と言い出すに決まっている。
それだけはいやだった。カトレアの傍に居たかったから、結局言い出せなかった。

ダイアナが見合いに来る事には流石に戸惑いを感じたが、いつもの様に軽くかわせばいい。そう思っていた。
そうしてその日の見合い当日。
――ダイアナは出遭って直ぐ、僕に婚約書を突きつけてきた。

「貴方の両親から受け取った」
「――僕は、」
「もう決まったことなのよ。レイス・ティグト」

――こんな事になるなら、僕は最初からカトレアが好きだと両親に言っておくべきだった。
僕は両親には逆らえない。両親は怒ると今でも怖いし、それに僕を此処まで育ててくれた敬意もあるから、反抗出来ないのだ。
だからダイアナが突きつけてきた婚約書にもしぶしぶ名前を書いた。
これはお見合い何かじゃなく、結婚要請だったのだ。後から両親が言っていた。

そうして僕はカトレアと別れざる終えない状況になり、彼女に別れを切り出した。
唯僕も両親の血が流れているらしい。プライドの壁が、別れた理由―ダイアナと強制婚約する事―が言い出せなかった。

カトレア。どうか、君は幸せで居て。




カトレアと別れた後は早急に結婚式を挙げさせられ、そして僕とダイアナの子が生まれた。
僕が名前を決めればいいとダイアナに言われ、僕は迷うことなく答えた。
‘セレスティナ’――世の中の厭世的リアリズムを歌うその言葉と、カトレアの名を組み合わせた名前を。


――××年、1月28日。ダイアナ・ティグト、レイス・ティグトの第一児。
名を、セルシア・ティグトとする。


これは僕からの、残酷な神様へのせめてもの報復だ。










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